わたしについてきなさい 2015年3月1日

聖書 マタイの福音書 8章18~22節

主イエスのまわりは、大勢の群衆で、溢れかえっていました。悪霊を追い出しでもらった人々、あるいは、長引く病の癒しを体験した人々、そして、その人たちを連れてきた家族、友人、さらに、いつの世も必ず現れる見物人たち。しかし、その熱気の中で、主イエスは、弟子たちに向こう岸へ行くための準備を命じられるのです。向こう岸とは、ユダヤ社会を離れることを意味します。このように、人々に喜ばれ、リーダーとして担ぎ上げようとする雰囲気の中で、いつも主イエスは、身を引かれる態度に出られるのです。いやしは、神の愛のほとばしりによって起こされた奇蹟であり、それは決して、人々を集める手段でも、目的でもありません。

ひとりの律法学者が、感激して「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこでもついてまいります。」と、近づいてきました。主イエスは、彼が望む服従は、あくまでも自分本位であって、現実性を失っていることを語られるのです。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には、枕する所もありません。」主イエスに従う道とは、十字架への道であったのです。

別のひとりの弟子は、「主よ。まず行って、私の父を葬ることを許してください。」と、語ると、主イエスの応答は、「わたしについてきなさい。死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。」であったのでした。神がお造りになった命を愛し、家族の関係性を大切にしているゆえに、語られた言葉と、深く受け止めたいと思うのです。死とは、この世と神の領域の断絶を現しています。どんなに葬りを律法に乗っ取り、大げさに時間を使って執り行ったとしても、その断絶を超えるものではありません。 命をいただいて生かされている間に、主イエスの「わたしについてきなさい」の招きの言葉に、応答することが求められているのです。そこに徹底的に、従うときにこそ、十字架と復活の出来事に生きる私たちを見出すことになるのです。