マタイの福音書は、主イエスの誕生の出来事の前に、長々しく信仰の父アブラハムからの系図を記します。そこには、異邦人の4人の女性の名前も挙げられ、時代を超えて繰り広げられる民の罪の歴史を思い出すように導きます。しかし、民を罪から救い出すために、与えられた小さな命の誕生も、周りから見ればスキャンダラスな問題だらけの状況の中からはじまっていくのです。
母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒にならない前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった(1:18)一人の女性の中に命が宿ることは今も昔も不思議としか言いえない部分が秘められています。特に男性側からすれば信じるしかない状況の中で、妻となる人の体形が変わり、触れば動く存在を感じていくのが妊娠という出来事なのでしょう。ヨセフにとって、マリアから聖霊の働きを聞かされたとしても、その言葉を簡単に信じることは難しいことです。ましてダビデの家系を背負う一人として、律法は大きな基準となっていたのでした。その中で、彼女の命の危険を回避して、それでも正しく生きる道をさがし、内密に離縁しようとしたのでした。
主の使いは、ヨセフの夢に現れて、マリアの胎に宿っている命は、聖霊によるものであることを告げ、その子の名をイエス(主は救い)と名付けるように示すのでした。そして、すべての出来事は、「主が預言者を通して言われたことが成就するためである。」と、語るのでした。さらに、主の使いは、ヨセフが会堂で何度も聞いていたイザヤの預言を語るのでした。「見よ。おとめがみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」 その名は、出エジプトの出来事にむかうモーセに告げられた神の名「私はいる」につながり、約束の地を前にするヨシュアに語られた言葉でした。神が共にいることこそ、本当の祝福であることを受け止めて、ヨセフは命じられるとおりに進みだすのでした。