聖書:マタイの福音書 20章1~16節 青野太潮先生
どこに立って物を見るかによって、見えてくるものは非常に異なったものとなります。そのことをイエスさまはよくよく知っておられたのではないか、と私には思われます。とくにイエスさまが「譬え話」をお語りになったとき、「あなたはどこに立ってこの話を聞いているのか」と私たちはほとんど常に問われており、それゆえにその立ち位置いかんによって、イエスさまが言われたいであろうことをすっかり見逃してしまったり、逆にそれをズバリそのままに受け止めることができたりするのではないかと思います。マタイ福音書20章の有名な「ぶどう園の日雇い労働者の譬え話」においては、そのことが典型的な形で明らかになるのではないでしょうか。この一見理不尽な譬え話を、イエスさまの意図に即して正確に理解できたのは、マタイ21・31の語る「徴税人や娼婦たち」(新共同訳)だったのではないかと思います。彼らは、自らを義人とみなす者ではなくて、ゆるされなくては生きていけないことを十分すぎるほどに知っていた者たちでした。
ではパウロの立ち位置はどのようなものだったでしょうか。パウロが第一コリント2章2節で語る、「私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」という決心こそ、それを明らかにしているでしょう。つまり、常に「十字架につけられたキリスト」に目を注ぎながら物を考えていく、という立場です。原語のギリシア語では、この「十字架につけられた」の部分は現在完了形で語られていますので、厳密に訳せば「十字架につけられ給ひしままなる」となります。そして文語訳聖書は、ガラテヤ3・1においてのみではありますが、正確にそのように訳しています。このように十字架のイエス・キリストに視点を集中していく姿勢は、結果としてどのような生き方をもたらすのでしょうか。生前のイエスさまがお語りくださった福音と関連づけながら、この問題についてしばらくの間ともに考えてみたいと思います。