聖書 ルカによる福音書 7章11-17節
主イエスの一行がナインという町の門に近づくと、大勢の人々の葬列が出ていくのに出会うのでした。その一行は、やもめである一人の女性のひとり息子が死んで、町の人々がそばに付き添って墓へとむかうものでした。当時の葬列には、泣き女と笛を吹く人がその列に加えられていたので、誰もが死者を弔う列であることが分かったようです。主イエスは彼女を憐れに思い「もう泣かなくともよい」と声をかけ、近寄って棺に触れていかれるのでした。
ここに記された「憐れに思う」とは、腸がちぎれる想いに駆られ(岩波訳)とも翻訳される主イエスの極めつけの同情心を現わす言葉です。長く厳しいやもめ生活を続けながら一人息子の成長を心の支えにしてきた彼女への深い憐れみの思いからの言葉であったように思えます。この言葉は、半殺しにあった男を見たサマリア人の話(ルカ10:33)にも見い出され、憐れみの思いと同時に行動が起こされていくのです。
主イエスが、触れれば汚れるとされる死者に手を伸ばして触れたことで、その葬列は止まりました。「若者よ。あなたに言う。起きなさい。」応答するように布で蒔かれた若者は起き上がりものを言い始めるのでした。そして主イエスは母親に息子をお渡しになるのでした。
この箇所では人々の求めに応じて、あるいは人々の信仰によって行動される主イエスではなく、まさに腸がちぎれるような同情心からの主イエスの言葉と行動が記されているのです。私たちは、この世に命が与えられた以上、誰もが死にむかって歩んでいることを頭では理解しているのです。 しかし、大切な人の命が終わり、自分との関係性が断絶されたような状況に置かれた悲しみに向かうことは実に難しいことです。喪失感と無力感の只中にいる人にむかって主イエスは「もう泣かなくてもよい」と語られるのです。死に勝利され、復活の命を得て生きて働いておられる主イエスだからこそ、命の主なる神からの癒しと慰めの言葉が届けられるのです。