キリストの体 2020年5月31日 ペンテコステ礼拝

聖書 エフェソの信徒への手紙 1章20-23節

聖書の中に登場する「聖霊」とは、「息」とか「風」という言葉に由来し、目には見えないが感じることのできるものとして語られています。天地創造に至る前から神の霊が水の面を動いていた(創世記1:1)と、万物が、神の霊の働きかけによって生じていくことを示します。 また人間の存在自体も、神が命の息が吹き入れられて造られたことを記しています。時代を経て現代社会に生きる私たちでも、いまだに科学技術で解明できる部分はわずかで、自然運行の中に大いなる力を感じつつ、また超自然現象の前には実に弱い存在でしかないことを知るのです。

使徒言行録2章には、復活の主イエスの言葉に従って、聖霊が降るのを祈り待ち続けていた人々へ、時が満ちて聖霊が降った出来事が記されています。そこには「風」「音」「炎」によって表現される聖霊の満たしが実現し、多様な背景を持つ人々に神の言葉が迫っていくのでした。これに応答する人々によって、教会がはじまっていくのです。教会とは、罪の赦しを受け、聖霊の賜物を受け入れる人々によって構成される共同体と言えるでしょう。それぞれに違った背景や考え方を持ちつつ、多様性の中で「イエスは主なり」という信仰告白でつなげられていることを認めあう場所ともいえます。

使徒パウロは、エフェソの教会にむかって、教会の存在意義を語ります。すべてのものをキリストの足元に従わせ、すべてのものの上に立つ頭としてのキリストが教会に与えられていることを示したのでした。当時ローマ帝国の王こそが、すべての支配、権力、権勢を持つ人として崇められていました。だからこそ、すべての上に立つキリストを「主」と告白することは、大きな決断であったのでした。教会こそ、キリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている力が満ちておられるところ(エフェソ2:23)なのですから、私たちも揺さぶられることなく「イエスは主なり」と告白し続けていきたいと思うのです。