聖書 マタイの福音書 6章16‐18節
主イエスは、自分の義を人前で行わないようにと、施し、祈り、さらに断食について例を挙げて語られるのです。施しは、人に向かい、祈りは、神に向かい、最後の断食は、まさに自分の深い思いに向かいあう義になるのかもしれません。断食とは、食事の全部、あるいは一部を特定の期間、故意に断つことを意味します。 旧約の時代、預言者モーセは、イスラエルの民が犯した罪のために、40日、40夜断食し、サムエルもまた、ミツバでイスラエルの犯した罪のために断食をしたと記されています。ですから、主イエスが語られた頃のユダヤ人社会において、律法学者、パリサイ人の指導の下、週に2回の断食が実施されており、特別の贖罪の日には、食べること、飲むこと、身体を洗うこと、油を塗ることが禁止されていたといいます。
主イエスは、偽善者が行う断食を、批判されました。彼らは、断食していることが人からわかるように、やつれた顔つきを人前にさらすのでした。偽善者という言葉は、仮面をかぶって別の人になる俳優と同じ語源をもち、その断食は、心からの悔い改め、罪の赦しを願うものを超えて、単に、人からの賞賛を得ようとする演技になっていると、厳しく語られるのでした。
そして、あなたがたの断食は、人に見られないで、隠れた所におられる父に見られるために、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。と示されました。まさに、それは、ユダヤの人々がお祝いのときにすることでありました。 主イエスが、この世にきてくださったことは、罪の中に埋もれていた私たちを救うために来られた出来事であり、まさに神様からの大いなる愛を受けとめて、喜びの祝宴を開くべきときであることを語られたのでした。
主イエスは、自分の弟子たちが、断食をしないという、抗議に対して、「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」と、主と共に歩む弟子たちに、喜びの福音を届け続けられたのでした。