聖書 ルカによる福音書 15章1-7節
徴税人や罪人が皆、話しを聞こうとして近寄ってくると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは文句をいいます。なぜなら彼らは、律法的判断によると「汚れて」いるので、触れてはいけないし、ましてや共に食事をすることなど、あってはならないことだったのです。しかし、主イエスは何度も彼らを招いて、喜んで共に食事をされたことが記されています。神の無条件の恵みの啓示として、主イエスはこの世に遣わされたのです。すなわち、このような律法を守ろうとしても守ることのできない、いわゆる罪人と言われる人々の救いのためにこの世に遣わされたのでした。自分が義人、正しい人と思っている人には関係ないとまで言われるのです。
この「見失った羊」のたとえ話は「なくした銀貨」「いなくなった息子」と合わせて「罪人の悔い改め」について語られた話です。羊は、ド近眼、極度の小心者、さらに転んだら起き上がれない性質のために、羊飼いがいなくては生きていけない存在なのです。だからこそ、羊飼いは見失った一匹のために、99匹を荒れ野に残して見つけ出すまで、捜し求めていくのです。ルカによる福音書は度々「悔い改め(メタノイア)」という言葉を用います。これは罪人がその律法違反の生活を悔いて、律法を順守する「義人」になることではありません。むしろ方向転換して神と人との関係性の修復、神の愛への立ち帰りを現わす言葉なのです。
アドベント第二週の主日礼拝には、今年最後の主の晩餐式の準備が整えられています。コロナ危機の只中で、この主の晩餐式の方法を検討し、できるだけ飛沫感染を防ぐ方法を考えて行ってきました。愛餐会も長く中止している中で、共に食することの大切さと、復活の主が招いてくださる主の食卓を想起できる礼典として何とか実施していきたいと願ってきたのでした。戸口に立って心の扉をたたいてくださっている主イエスをお迎えして、共に食事をするものとさせていただきましょう(黙示録3:20)。