2021年9月12日 主日礼拝 祈るときには

聖書 ルカによる福音書 11章1-4節

私たちが、毎週の礼拝で共に祈る「主の祈り」は、主イエスが弟子たちに教えた「祈り」です。独りで祈られる主イエスに、弟子たちが祈ることを教えてほしいと願ったことで伝えられた祈りです。ですから共に祈るときだけではなく、一人静まって祈るときにも用いてほしいと思います。とりわけ心が閉ざされて、祈りの言葉が見つからないときに声に出して祈ってほしいのです。

祈りの最初に、主イエスは神を父(アッパ(おとうちゃん))と呼びかけました。いままでは神は創造主なる神であり、畏れ多い神、どちらかというと怒りの神でした。しかし、主イエスはまるで幼児が呼び掛けるように神の存在を近くに、そこで手を伸ばせば触れるようにして祈りはじめていくのでした。その先には主イエスに従い弟子とされた一人ひとりに、神は子としての身分を与え、何もかもを注ぎだして祈ることが赦されていくことが示されていくのでした。

さらに主イエスは弟子たちが知っている宗教家たちの祈りとはまるで違う祈りを示されたのでした。短く簡潔に神の御名を崇め、御国の到来を求めた後に、彼らの生活に密接した祈りを教えてくださいました。弟子たちの旅につぐ旅は、日々の糧(食物)が保障されることはなく、誰からか恵んでもらうしかない歩みでした。そんな日常のことや命の直結する出来事を祈ることが示されたのでした。

次の祈りは、相互の関係性の祈りでした。主イエスに声をかけられ従ってきた弟子たちが共に生活することは、緊張感や確執へと進みかねない状況をはらんでいました。だからこそ、神に対しての負債者である自分自身を見つめ、隣人に対してのいら立ちや不快感を相対化するための祈りを示されたのでした。 最後の祈りは、誘惑に対しての祈りでした。悪魔に誘惑された主イエスこそが知りえる人間の深い闇、ここからの解放には、祈りによってしかないことを教えてくださったのでした。

主イエスが教えてくださった「主の祈り」こそ、祈りの基本が凝縮された祈りです。神は私たちが祈ることを切に待ち望んでおられるのです。