2022年3月20日 主日礼拝 あきらめない園丁

聖書 ルカによる福音書 13章1-9節

主イエスは、ご自身が遣わされた世界の状況に敏感に対応されます。本日の聖書箇所では、総督ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたという事件について、さらにシロアムの塔が倒れた事件にも言及されます。

私たちの生活も様々な人的な災害、自然災害に遭遇し、時には人の命まで奪われる出来事が起されていきます。終息が不透明な感染症、世界中を揺るがすウクライナの戦争、突然の地震、そこで、痛みと悲しみの只中に放り出されている人々を思うのです。主イエスは、そのような事件一つひとつに目を留め、一緒になって共に痛むことを求めておられるのです。 ところが私たちは、どこか災難に対して原因探しをしたり、罪とか、罰を思い浮かべる部分があることを悔い改めないといけないのでしょう。「決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ皆同じように滅びる(13:5)」と語られた主イエスは、たとえ話をされるのです。

この話に登場する園丁が、ぶどう畑にいちじくを植えることだけでも、すでにこの果物への思い入れが感じられます。聖書の中に、いちじくの実はイスラエルの民の繁栄を現している多くの箇所を見出すことができます。さらに彼らが向かう先はエルサレムと考えていくと、ここで実のならないいちじくは、悔い改めの実をつけることのないイスラエルの民と言えるでしょう。

主人は「三年もの間、いちじくの木は実を見つけることない。切り倒してしまえ」と命じ、さらに土地を無駄にしておくのかとまで詰め寄っていくのです。しかし、園丁は「木の周りを掘って肥やしをやってみます。今年もこのままにしておいてください」と、交渉するのです。義なる神(主人)に対して、もう一年と交渉し、適切な肥料を施して実を待つ園丁こそ、主イエス・キリストなのです。この執り成しの祈りこそが、私たちの救い、私たちの希望であることを覚えて祈り合いましょう。