御心を行う者 2015年1月25日 主日礼拝

聖書 マタイの福音書 7章21~23節

神の御心、神の意志、さらに言えば神の愛を知ることによって、私たちは、神と人に愛される存在になることができ、平和が訪れるのです。 神の御心を、具体的に見て感じることができるようにと、主イエスは、この世に来てくださり、聖書は、その出来事を、驚愕と畏れの中で、聖霊によって記された書物なのです。しかし、人間は、どうしても自分の思い、自分の意志、自分の愛が、先に立ってしまい、他者と生きることの難しさを体験するように思えるのです。 ですから、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と、主の祈りを、共に祈り合うのです。

「主よ。主よ。」と言う者とは、イエスは主なりと信仰告白をしたことによって、自分の権利を獲得したように思う人々を指します。それを根拠に、すでに天国に入ることができると、自分自身を正当化している者のことです。 一方、「御心を行う者」とは、神の招きを受けとめ、その恵みの中で、何の権利も主張せずに、キリストに従う者と言えるでしょう。昔も今も、教会には、両者が存在し、自分自身の中にも両者が存在する事実に目を背けてはいけないのだろうと思うのです。

「主よ。主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟を行った。」という行為は、「主イエスの名」が起こす出来事であって、聖書は、教会の仲間ではない者も、偽預言者も、同じことができることを語ります。主イエスは、人の目に見える行為そのものによって、受け入れてくださるのではなく、その人々にむかって「わたしはあなたがたを全然知らない。」と宣言されていくことを示されたのでした。

ゲッセマネの祈りで、「わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください」と最後まで、神に信頼し、神に委ね、十字架の道を進まれた主イエスのみが、私たちを探しだし、「わたしはあなたを知っている」と、招き続けてくださるのです。